43、11、12日
X 御理解第24節
人に誘われて、しようことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ち込んでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを言うが、一人で持ち上がらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ち上がる。ばらばらでは持ち上がらぬぞ。家内中、勢を揃えた信心をせよ。
仲々この御教えは分り易い様で大変分かりにくい御理解だと思いますね。
分り易いようで分り難い、本当な事は仲々分り難らない、人に誘われての仕様事なしの信心、…どんな信心が人に誘われてからの信心、じゃない、自分がその気になってお参りしよるんだと、言うてしまえば、もうそれまでなんですね。
大勢掛け声で一度に力を揃えてと、いちばん最後の所に有りますが、うちは、家族中信心をさせてもらいよる、一家あげての信心をさしてもらいよるけれども、一つの事に焦点を置いて皆が信心を、息子は息子で願い、家内は家内で、主人は主人で、それぞれの願いの信心をしよる。そんならこれは、バラバラじゃろうかとこう思う。これじゃいかん、と言うふうに、ここを頂けん事もないですねえ。
それは、成る程、一つの事を焦点にしてゞすね、まあ家の難儀なら家の難儀一つの難儀な問題をです、それを家族中の者が、それぞれの信心、それぞれの力を持って、それに取組むと言う事は、これは、‥それは本当に有難い事ですけれども、そういつも、一家中がその事に焦点を置かねばならんと言う様に、難しい問題が、何時もあろうはずもないしね、やはり子供は子供、ネ 子供なりに学校へ行きよると、その子供は勉強やら試験の事を願っておる。
主人は。やっぱり自分の生活がかゝっておるのですから、生活全般の事に渡ってお願いする、ネ 又皆さんの様に、今度は、教会の幹部の人達でございますが、………?やはり教会の事も一心に願われる。ネ
ですから、その自分が今、こげん祈り、こげん願いを持っておるから、皆んなも此の様にお願いするぞと言う様な、と言うのが、一家が勢を揃えたと言う事ではない、それは、しかし有難い事なんだけれどもね。
例えば、あの大阪の或る教会に阿部野と言う教会がある、あんな大変な朝参りが千人も有ると言われる程に御比礼を頂いて居られる。女の先生ですけれども、その大変な御比礼を頂いておられる、そこに、どうして、千人ものお参りがあるかと言うとですね、御存じの様に大阪は商都と言われる様に商売人の街なんです。
ですから、ちょっとした店には、十人、二十人、のいわば従業員である、店員がある訳です。ネ そこで、その主人がですね、これは店の事、お陰頂かな、手形なら手形がある訳ですねえ、いついつ日の、これ丈の手形がある、とても、これは、人間の知恵力では、でけん、と言う時にですね、もう店員さんにですね、又は、女中さんにまでゞすね、…頼んどる、これは主人が、…これは、まあ、阿部野の、まあ、朝参りの多いのは、それだと、言われておる、と言うよりも、あゝして、此の頃聞いたんですけれども、はあ、成る程私は驚いたんですねえ。
明日、手形があるから、皆んな、いっちょう頑張って呉れ、と言うのが、その信心に頑張って呉れ、とに角、朝参りして、一諸にしてですね、だからもう、その、ご飯炊きは、もう帰ってからよかけんで、さあ皆んなで、家族の者が挙げてゞすね、御祈念の時間になったら、皆んなで、その、教会に… ですから一軒の家から十人、二十人の者が参ってくるもんですから、例えば一軒の家から十人の者が参って来るのが、十人なら百人です、百人居れば成る程千人だと言う事が分かりますよね。………?
そして、的確にお陰受けるそうですねえ、やはり、重い物でも大勢の者が掛け声を揃えて持ち上げれば、持ち上る道理だとおっしゃる、やっぱり道理なんです。
ですから主人が頼む、女中さんにでも、番頭さんにでも、ネ そうして、その結果がどう言う事になってくるかと言うとですね、それで、お陰受けるもんですから、女中さんでも、番頭さんでもですね、金光様の信心の有難い事が分ってくる、お陰から分ってくる。
だから、自分達が又今度は店でも持つ様になると、やっぱり、そう言う風になる、女中さんが、お嫁に行くと、やはり、お陰頂く、そう言う信心が出来る。
成る程これじゃあ、成る程千人の朝参りもあろうと、お陰頂くから、そう言ってある。…ネ だから実意に合楽の場合、やはり頼まにゃあいかん。これは、まあ一つの、そこの阿部野の教会の、まあ一寸、特異性とでも言おうかねえ、変った、うん、まあ、信心だと言われています。
確に、これは勢を揃えている訳です。ですから、そんなら店員とか女中さんではなくて、家族の人達がどうでも、こうでもお陰頂かんならから、ネ 主人が家内に頼み子供に頼み、ネ して、その時、その事を焦点にしての信心が出来る所に、やはりお陰を受ける、と言う事が言えます。
ですから、そう言う事が確に勢信心ですけれども、んなら、そういつも、此の事ば願わんならんけん、はよう、あれを頼むぞ、誰も、一つ参って呉れと言わんならん事が、何時もあるはずはなかですよねえ。
そこで、やはり子供は子供、主人は主人と言う同じ御祈念しておっても、御祈念の内容は違うのです、私共なんか、もう日々違う。だから私の祈り願いと言うものを、んなら例えば家族の者にも皆さんにお願いして、此の事をあんた方も願ってくれんの、なんちゅうことを言う、その願いの焦点と言うのは大変に違う。親先生、そげえな事は願いなさらんでんよかろうと言う様な事を願っている事がある、皆さんには分んなさらん事を、ネ
ですから、ここんにきゃあ仲々難しい、信心の程度である、それは、小学校の者が願う事、大学生が願う事は、願う事その事が違うのである。ですから、ネ その事丈では無い事が分ります。ネ 店の者にでも頼んでから、一つの事を願って呉て、手形なら手形の事を頼むと、女中さんも番頭さんも、そん時には朝参りをする、だから、それも勢信心だと、こう思う、その事丈ではない、それは不可能な場合もある。又は願いの焦点と言うものが信心の度合いによって違う。ネ
だから、ここん所が、まあ勢信心とはどう言う様な事か、又、人に誘われての仕様事なしの信心は、付焼き刃の信心、付焼き刃は取れ易いと言うて居られるが、そんなら皆さんがです、いやあ私のは付焼き刃じゃない、その気になってお参りしておるのだと、こう言えばもう、はゝあもう自分の信心は付焼き刃じゃ無い事になる。成る程、それも付焼き刃じゃないけれども、ネ 私はもっと間違いのない、その身から打込んでの信心と言うのはある。ネ
人に誘われての信心、これはね、その根本の所に、どう言う様な考え方がなからなきゃならんとか言うとね、お陰を頂かなければならんから本気で信心すると言うのも間違いないですよ。
此の事を、お陰を頂かんならんから、本気で信心さしてもらおうととこう言う気になる、本気で修業さしてもらおうと言う事になって修業に取組む、これもやはりその身から打込んでの信心、所がこゝにも言うておられる様に、どうぞその身から打ち込んでの真の信心をせよと、おっしゃっておられる。こゝんにきが分かると、それだけじゃいけない事が分かる。
そこで、私は、こゝん所で思わしてもらう事はですね、お陰を受けなければならんから打ち込むと言うのではなくてですね、信心によらなければ人間の幸せは有りえない、私は助からない、私は助からんのであり、私の一家は助からんのだと言う思い込み、ネ
その思い込みがあっての打込み、ネ 信心によらなければ助からない、信心によらなければ、自分の一家は立ちゆかん、
神様のお陰を頂いかねば立ち行かん、ネ こゝの思い込みがあって打込んで行く所に、これは、人に誘われてゝんなんてんと言うことではなくて、その身から打込まざるをえない。ネ
此の事ば、お願いせんならんから打込んでおる、これはね、打込んだ事にはならんのですよ、実を言うたら、何故って、此の事ばお陰頂かんならんから打込んでおると言うのだったら、その事が思う様にならなかったら、…どう言う事に…その打込むどころか、もう信心が薄いものになっておる、いや信心を止めていっておる人がある。だから打込むと言う事にはならないでしゅうが、
打込むと言う事は、打込むと言う事はね、決まらなきゃ駄目だと言う事。ネ
釘なら釘を例えば打込む、ネ 棒ぐいなら棒ぐいを打込む、それに、一辺叩けばプスッと入っていく様なもんじゃ、つまらんでしょうが。
釘でも相手の木が腐れておったら、これは打込んだ様であって、打込んだ事になっておらん。利いとらんから杭がグラグラしよる。ネ
だから、お陰に打込んだと言う信心では、ここんところではね、付焼き刃も同じ事になるのですよ、取れ易い、グラグラする、そうでしょうが、ネ どんなに五寸釘を打込んでもですよ、相手の木が腐っとったら打込んだごとあるだけで、手でゝも引き抜ける、付焼き刃とは、打込んだ様であって打込んではいない事があるのです。ネ
そこで、こゝんところをです、信心によらなければ、助からんのだと、これはまあ実際にそうですもの、ネ 信心によらなければ人間の真実の助かりはないにです、真の信心がなからなければ、真の信心がなからなければ、人間の真実の幸せはありえないのだ、なれるはずがないのです。
そこで真の信心を求め求めさしてもろうて、信心なしには、この世は闇だと、信心なしには、自分の心が闇だと、信心がなかったんでは、自分の家庭は闇だと言うところから、信心の光を求めての信心になってくる。ネ
信心によらなければ助からない、そう言う意味で、これは、小さい時からですね、自分がふがいないかもしれませんけれど、自分が例えば商売をさして頂いてもですね、私と言う人間は神様のお陰を頂だかねば幸せにはならん、幸せになれん、そう言う思い込みは子供の時から有りました。私は、
自分と言う人間は神様のお陰を頂かねば、成功しきらんぞと言う様にね、子供の時から考えとりました。ネ 自分が頭がわるかったり力がなかったりするから、そう言う思い込みが強かったのかも知れません。
長ずるに従って、その思いは、いよいよ強うなって来たのです。私は、… 確かに、そしての信心を私は、ここでは打込んだ信心と言う事になるのだと、こう思うんです。ネ
自分は人に誘われてからじゃない、自分は自発的にお参りしよる、そう言う信心が必ずしも、その身から打込んだ信心ではないと言う事。それが例えば、此の事を頂かねばならんけん、貰わねばならんけんと言う信心であるならば、なおさら、それは本当な事は打込んだ事になっていないのが多いと言う事。
その事によって打込んでいる人もありますよ、間違いなくグイグイ打込んでいる人も有りますよ。けれども、それは的確なものではない。ネ 打込んでおる様であって、当たってみるとグラグラしているような場合も有ると言う事です。
ここんところを皆さん分ったですね、その身から打込むと言う信心を付焼き刃じゃない、取れ易いものじゃない。その身から打込んだ信心とは、信心なしには、自分は立ち行かんのだ、真実のお陰を頂かなければ、自分の一家は本当の幸せにはなれんのだ。
自分がまだ頑張られる、自分がまあだ元気だから、自分方には、まあだ、これがあるから、あれがあるからと、言う様なものではなくてゞす。もう本当に神様のお陰を頂かなければ、自分の家が立ち行かんと言う思い込みを、いよいよ強うしてから、打込む信心を以て、いわゆる真の信心と言う事になるのですね。
皆さん、ここんところを、よう分って下さいよ。そんなら、お陰に打込んじゃならんと言うのじゃないです。お陰頂かんならんから一生懸命のはずみも付くのですから。ネ
苦しい事、難儀な事があるからこそ、例えば眠いもなか、寒い事もなかと言うて、お参りして来るのですから。ネ けれども、その根本になるところがですね、今、私が申します様に信心なしには立ち行かんと言う所迄、信心を一つ極めると言うかね、神様を分ると言うかね、又は自分自身が、本当に障子一重がまゝならぬ自分である、人の身である、ネ 自分がいよいよ無力であると言う事を分らなければ、そこんところは生まれて来ないと思うのですね。
まあだ、私があれもしきる、あれも出来ると言う間はいけません。ネ 世に勢信心と言う事を言うが、一人で持ち上がらぬ石でも、と、こう、世に勢信心と言うが、皆さん帰られたらどうぞ、ネ 家内に出けん時には主人に頼みなさい、、夫婦だけの信心なら子供に頼みなさい。
これは、どおうでも、お前も一生懸命になっとかんといけんぞ、ネ 例えば道理から言うてもそうじゃないか、百斤の物を二人でかゝえれば、五十斤づつで済む訳なのだ、俺一人では骨が折れる。頼むぞと例えば主人が家内に頼む、こんな信心なら頼んでもいゝと私は思う。
お父さんの権威とか主人の権威とか、そんな事は問題じゃ無い。それによて信心が分かるのなら、相手もお陰頂くのだから、頼まにやいかん。本当に頼まにやいかん。ネ そして家族が勢を揃えた信心にならにやいかん。ネ それを、こゝでは勢信心と言うてあるけれども、それだけではない。ネ
一心に心が揃うと言う事は、例えば一つの事を頼むぞ、願うぞと言って、願う事だけではない、一つの事を皆んなで持つと言う事なのだけれども、それは信心の程度、度合いによって、願う事はまちまちなんです。ネ そこで、一つの間違いのないものが焦点に一つなからなければならないですねえ。
昨日さき一昨日だったでしょうか、森部の高山さんがお参りになって、えー福岡に嫁にいっとります娘が今度二度目の出産のお陰を頂きました。大変安産のお陰を頂いた、それで、あの、お名前を頂いて呉れ、…ご返事は明日でもいゝからと、まあ通知があった。
それで、お母さんが早速お願いに来た訳なんです。ネ
それで、その事神様に、お届けさせてもらって、お礼申させてもらうと同時に、お名前お願いさせていただいたら、ネ …「土を二つ書いて圭と言う字ですね、…土を二つ書いて圭、それから恵まれると言う恵むと言う字も恵と読むんですね。」こう、皆さん書いてごらんなさい、そうでしょうが、圭、恵、ネ こゝに、ひらがなを書いても、やはり、けい、ですけれども、土を二つ書いても圭、恵まれると書いても恵、ネ これを、どっちにしたら良かろうかと私が思ったら、ひらがなで、けい、と真ん中に、こう頂いた、けい、はあゝ、これは漢字で頂いたのは御理解だなあ、だからお名前も、こりゃ、けい、「大原けい」はゝあ、これは、いゝ名前だなあ、と私は思うた。古風な名前じゃあるけれども本当に、自分方の娘んどん、付けたい名前だなあと思うた。
大原人の大原にん、語呂が非常にいゝですね、「大原けい」語呂が、「けい」さん。ネ 大原けい、それで例えば、けい、と言うには、えゝ、あんまり古風なごとあるならば、こう言う、お父さん、お母さん、なりがね、「子」を付けてもいゝですよと、「けいこ」と、けれども漢字は私、好かんです。ひらがなでないと、ネ そしてね、例えば両親が、二人の者がです、土の様な信心、泥の様な信心、ネ 二人が、ネ 泥の様な信心をさせて頂だきゃ、必ず此の子は恵まれると言う御理解。
夫婦の者がね、泥の様な信心をさして頂だきゃ恵まれる、ほう、してみると、これは漢字じゃいけない事が分かる。
私は、こゝのところはですね、勢を揃えた信心と言う事は、ネ 夫婦の者が泥の様な信心をすると言う事なのですけれども、ネ んなら家族の者が、この泥の様な信心をすると言うところに焦点が置かれて、ネ 願いはまちまちであっても、かんまんと言う事なんです。ネ
思い上がった信心じゃつまらん、うわっちょの信心じゃつまらん、ネ 程度は低うても高うてもかんまんから、ネ 夫婦の者が泥の様な信心、ネ いわゆる実意、丁寧、神信心、教祖様が、おたどりになった様な信心を神習わして頂こうと言う信心、その事に焦点が置かれなければならない。その事に皆んなの一心が揃わなければならない、ネ
こう頂いて参りますと例えば、んなら一つの事を、同じ事を、皆んなで願わなゝらんと言う事ではないと事が分りますよね。
そもそも願っていけんちゅう事じゃないですよ、ネ さあ明日は手形で困っているから、まあ番頭さんでも女中さんでもネ、入ったら大丈夫だろうかと思う、それが本当の生きたお導きになるのだから、本当に皆でお願いしてくれたから、こげなお陰頂いた時、女中さんにでも、番頭さんにでも、やっぱり、お礼を言えれる様な主人にならんきゃつまらん。ネ
皆で、一心に頼んでくれたから、お陰頂いた。そこに、んなら女中さんでも、番頭さんでも本当にお陰頂いていく、ま、こゝでは、まあ、一寸した例を言うと、高橋さんですね、福岡の、
職人さん達が皆んな参って来るでしょうが。勿論自分の事で初めの間お参り、‥最近ではどうですか、やはり三福寿司、 ……寿司?いず定寿司、とそれから、勿論高橋さんも、見えて願われるから、じゅあけれども、大将の事を願われる、お母さん、(奥さん)の事を願われる、番頭さん達が、職人さん達が、お礼を言うとりますよ、
先日、二~三日心前に、私どん遅う迄賑おうて、えゝ、何時もより遅うなった。それだから、その夜分、お夜食ども取ってから、女中さん、……?頂いてもらって、休もうと言う時になって何か変な音がする、どうした事じゃろうかと言うてから、皆んなで、その調べて見たところが、何と、その漏電してから、天井が燃えよった。
はあ、もう、そん時に、翌る日に参って来てから、その、ある職人さんが言うてましたがですね、「親先生、信心の有難さが今度初めて分ったち、もう、その大将が、大将がその時取られた、その、された事ですね、それから、その、皆んなに言われた事ですね、僕は本当に信心の有難さが昨夜分った、」と言うてから、ある職人がいうたんですけれども、
三人が三人ながらですね、三福が大難を小難でお陰を頂いたと言う事を、皆んなが自分でお初穂をお供えさせてもろうて、皆んなでお礼言うとるです。ネ
この人達が例えば店でも持つ様になったら、必ず金光様の信心する様になるでしょうねえ、…今、もう一番上に立つ職人さんが三人おりますですね、もう本当の職人さんが、三人の職人さんが主人に付いてくるから、本当に有難い事だと、こう思うです。
それぞれ、まちまちな、それぞれがやっぱ願いを持っておりますけれどもですね、その……同じ事は皆んなが三福寿司の事を願うと言う事です。大将の事を願うと言う事です、そう言う風に、こう、育てられていきよる。実に有難い。ネ
おそらく高橋さんが頼まれた訳ではないだろうけれども、やはり頼む様に、言うて居られるに違いがないと思うのですね。高橋さんの事だからお金の足りんちゅう事はないから、そして、手形が落ちんと言う事は無いだろうから、頼む事はないけれどもです、ネ けれども、おそらくは、此れは私が感じるところ、頼む様に言うておられる、ネ
だから皆んながお参りして来られる。そこに、言わば、三福と言う寿司屋の、が、勢を揃えて中心が信心になって行く事ですから、ネ お陰を受ける事が分ります。
だから、そう言う意味に於ての、は、やはり、それも勢信心だと、こゝから頂かねばならんけれども、本当の勢信心と言うのは、そんなら程度は違うと言う事、
だから同じ事を、又は深い深い、広い広い思いの事を願わして頂く場合なんかは、頼んでくれと言うても、その意味が分らん。
そうでしょうが、私が神様に願う事を皆さんも願うて呉れと言うても、皆さんが見当が付かないくらいな事が有るのですから、それが揃うと言う訳にはいけんのですわ、ネ
けれども、こゝだけなら揃えられる、こゝだけなら揃えられる、それが今言う泥の様な信心なんです、ネ 実意、丁寧、神信心、しなければ恵まれない、泥の様な信心さしてもらわねば、いわゆる、おけいさんになれない、いやこゝの信心が出来れば、お陰が受け恵まれる、お陰が受けられると言う思い込みを、こゝに作っていかなければいけん。ネ
その思い込みだけならば、こゝへ例えば、「一人で持ち上がらぬ石でも大勢掛声で一度に力を揃えれば持ち上がる、バラバラでは持上がるぬぞ。」バラバラでは無い事が分ります。扇の要の様に、そこだけは、そこだけは、要が一つになって、そして十本なら十本の骨は、バラバラに見えておっても、肝心要のところが一つであるから末広のお陰になる。ネ
私は今日はこの御理解二十四節から、そこの所を分らしてもろうた。ネ 人に誘われて仕様事なしの信心について私は申しましたですね。
けれども、お陰を頂かんならんから一生懸命参ると言うのは、最後に、こゝに言うてある、真の信心に打込めとおっしゃる、真の信心ではない。ネ これは、どう言う事かと言うと、神様のお陰を頂かなければ自分は助からんのだ、幸せにはなれんのだと言う思い込みを作れと申しましたね。
「世に勢信心と言うが」と言うところを、ネ これは頼んでゞも、いわゆる力を揃えると言う事も勢信心だけれども、本当の勢信心と言うのは、信心させて頂く者全部が、ネ 泥の様な信心を、一つの理想としての信心、ネ
言うなら泥の様な、ネ 大地にひれ伏した様な信心、いわゆる、実意、丁寧、神信心、泥の様な信心と言うのがですね、もう本当に事あるたんびに私は思うんですけれども、もう、何時の間にか、上っ調子になっておる事に気が付くのですね、ですから、こゝの所はいよいよ、あの、お互いが、共励をし合う時に、話し合う時には、そこん所が欠けてはおらんかと、お互いにそこんところを検討し合わなければいけないと思いますね。
そこん所に焦点を家族中の者が置いて信心する事が、家内中勢を揃えた信心と言う本当の意味に私はなると思うのです。そうして、こゝん所を、意味を今私が申しました様な事が分って、此の二十四節の御理解を読まして頂きますと、いろいろに分からしてもらう。
「人に誘われて仕様事なしの信心は付焼き刃の信心じゃ、付焼き刃の信心は取れ易いぞ。どうぞその身から打ち込んでの真の信心をせよ。世に勢信心と言う事を言うが、一人で持ち上がらぬ石でも、大勢掛声で一度に力を揃えれば持ち上がる。バラバラでは持ち上がらぬぞ、家内中勢を揃えた信心をせよ。」とありますね。
どうぞ
今朝は若先生が教師会で留守をしておるけれども、光昭が代わって奉仕させて頂きましたが、兄の留守の後を受けて、スム-スにそれがなされていく。
これは日頃から、やはり勢を揃えた信心をしておらねば出来る事ではない。
主人に、ちょっと差し支えが出来れば、家内がそれに代わっての信心が出来ると言う事は、勢信心の出来ておる証拠である
どうぞ